普通よりちょっといい感じで生きていけたらな

社畜も起業も違うんじゃないの?って視点で働き方を考えているつもりのブログ

「完璧な努力」をしていないと努力してないってのはやめませんか

「自己責任」という文字列が飛び交うような場でよく言われるのが「努力をしてなかったから」という論だ。もう結論から言ってしまえばこの論は難癖をつけるためのに用いられているに過ぎないから、あんまり深刻に捉えても仕方ないんだけど、それにしたって完璧で完全無欠な努力をしてさえいれば避けられたはずっていうのは、あまりにも難易度高すぎやしませんかね。

 

努力そのものと、努力と成功というものはかなりあやふやなものというのが実際だと思う。努力は「ある目的のために力を尽くして励むこと。」とデジタル大辞泉では定義されていた。この力を尽くしてというのは実際他人からは計り知れないし、努力の方向性が間違っている場合だってよくある事だ。あまり好きな言葉ではないが「私なりに」力を尽くしている人に対して、それ以上のことを求めても、良い結果とはならないのではないか。

 

結果論で叩くために努力の過程を丹念に調べ上げて糾弾することに意味はない。会社の様な場所であれば、例えば努力の方向性が間違っていた事に注目して、次はどうしたものかと考えたほうが建設的だ。

 

僕は自分が毎回「完璧な努力」が出来るとは思わないし、おそらくそれは無理と無茶を積み重ねる事になると思う。無理をするのは瞬間的なものにしたいし、もちろん試行錯誤して可能な限りその状態に近づけたいとは思うが「完璧な努力」を全ての場面で行うのは恐らく出来ないだろう。そんな時責められるような社会なり風潮よりも「しゃーない」で許し合って、アドバイスが取捨選択出来るような方がいい。

まず「どうしたの?」って言えるようになろうぜ

直ぐに沸く感情って何も解決しないのではないか?とようやく思えるようになってきた。しゃべる前に口の中で舌を7回まわせというフランスの諺があるらしい。なるほどそれゆえにフランス人はエスプリの効いたお言葉をおぬかしになるのですねぇと思うのだが、実際これは正しいと思う。

 

仕事で何かあった時とかに直ぐに沸く感情、たとえば依頼したものが出来ていなかったときは「コノヤロー」となってしまうが、それは感情の発散にすぎない。しょうもない上司が何度言っても動いてくれない、聞いてないかのような反応をするなど、特に会社においては人間関係が選択できないということもあり、怒りがわくことはとても多いのだが。

 

感情の発露は、それを意図して用いるようにしない限り、あまり効果的では残念ながらない。イソップの「北風と太陽」みたいなものだ。怒るほどその場は一瞬良いかもしれないが、長い目でみたとき局面としては悪化していく。怒りをぶつけまくることによって事態が動くこともあるけれど、あまり長続きしない。

 

これは非常に難しい話ではあるが結局「自分の機嫌を自分で取れる人が大人」という事なのだと思う。とはいえそれだけだと納得が出来ないと思うので、僕が自分の中で納得した考え方は「この怒りは問題解決に繋がるか?」というものだった。

 

僕はとにかく問題解決にこだわりがあり、問題があったら解決したい人なので、この問いかけは実にうまく僕には働いた。たとえサラリーマンでも一応はプロフェッショナルであるため、プロであるならば成果を出さねければならず、その成果を出すことにおいてこの怒りは必要か?もしくは問題解決に寄与するか?ということを考えたとき、「ねぇな」と思えた。

 

我々が職場でするべきは感情の発散ではなく成果を上げることであり、多くの場合成果を上げることは問題解決だ。だから、とりあえず腹が立つような事がなにかあったとしてもまずは怒るんじゃなくって「どうしたの」と背景を尋ねるのがもうあるべき基本動作だと思う。

新聞は読んだほうがいいね

新聞が順調に発行部数を下げている。

 

toyokeizai.net

 

それ見たことか偏向報道マスゴミめ、ざまあみろなどと言いたくもなる気持ちもわからなくはないが、それはおいておいて新聞は読んでおいたほうがいいと思う。それは単純にちゃんとした文を読む機会として。そして異なる視点を得るために。

 

平成28年社会生活基本調査によれば社会人の平均学習時間は1日6分という。統計の仕方、見方には色々あるし、6分でも10日やれば1時間じゃんとも思うが、まぁなんか短い気はするよね。しかし我々は忙しいのだ。ログインボーナスももらわないといけないし、デイリーミッションもクリアしておかねばならない。通勤中に貴重な睡眠を確保する必要もある。お疲れである。

 

社会人は極めて文字の文化だ。だが一方で「ちゃんとした文章」に触れる機会がはそう多くない。メールとか社内文章があるじゃんと思うかも知れないが、あれはある程度決まったテンプレートの使いまわしでしかない。編集や校正のチェックを通った文とはまた異なる性質のものだ。生業としてそれを続けてきた新聞というものは、なんやかやある程度の質が担保された文章を継続的に読むという事の習慣化に寄与する。最新情報に触れるのは楽しいし、それも読むモチベーションになる。悪くない。

 

読んでいれば書く方も良くなるかというと100%そうではないけれど、一定の水準は保てるように体験から思う。楽器と一緒で、長くやっていないと昔の感覚を取り戻すのに時間がかかってしまうが、少しずつでもやっていればある程度は維持できるのと同じだ。読むことも書くことも求められる社会人は読んでいて損はないと思う。

 

さて、視点だ。新聞は中立を装ってはいるが、明らかに各新聞社でスタンスがある。その事の是非についてはここでは言及しないけれど、これによって1つの物事でも、また随分と違う見方が出来るものだなという、異なる視点を得ることが出来る。これはかなり大きなメリットである。自分で反対意見を考えて、論理だててアウトプットするなど簡単には出来ないし、時間もない。

 

異なる意見に触れ、良い点悪い点について考え、自分の意見を決めるという事は思考の基礎だ。それの日々の訓練に役立つので、新聞は読んでおいたほうがいいと思う。

 

しかしもちろんそれは紙媒体でなければいけないという事ではない。極めてどうだっていいと個人的には思っているが、最近流行りのSDGsの観点から言えば新聞なんて最低の存在だろう。というわけでWebで複数の記事を読むに限るね。

コミュニケーションコストを意識して下げよう

コミュニケーションコストという言葉がもっと敷衍されたならば、日本の職場は改善して行くんじゃないだろうか。ほらコストを削るってなんとなく良いことって共通認識があるしさ。

 

コミュニケーションコストが高い人とは簡単にいえば話しかけにくい人だ。基本的に性格に根ざすのだろうが、態度や言葉を見ていると、話しかける際にわざわざ行くぞって気合を入れないと話しかけれられない人だ。

 

例えば嫌味ばかり言うとか、すぐ溜息つくとか、馬鹿にしたように話すとか、気分で仕事をするとか、そういう態度が挙げられる。ひどいのになると論理的な会話が出来ない。

 

過ぎたるは及ばざるが如しという諺があるが、仕事においては過ぎぎみの方が良い結果が出るのではないだろうか。仕事はコミュニケーション欠乏よりコミュニケーション過剰の方が絶対に良い結果が出る。マイクロマネジメントみたいなのは別だが、仕事というものがやるべきタスクを区分している以上、情報欠如におけるダメージは大きい。

 

だから基本的に良い方向へ導きたいならコミュニケーションは沢山したほうがいいし、そのためには職場のみんながコミュニケーションコストが低いのが理想的だ。性格の悪いヤツについては上長が確固たる意志を持って駄目なものは駄目だと伝え続けるしかないと思うが、基本的にみんな楽しく、もしくは心穏やかに、不要なストレスは下げて仕事の時間を過ごしたいと思っているのだから、自分がされたら嫌な事とかしなければいいと思うよ。機嫌を露骨に態度に出すとかね。

 

これは強制的には出来ない事だろうから、リーダーによる土壌づくりが重要だと思っている。雰囲気を良くするようにしている人の事を褒める事もそうだし、何よりリーダーが最もコミュニケーションコスト低くあるように務めるべきだ。組織内の立場は想像以上の影響力を持つから、せっかくだから良い方向へ使っていこう。

いいものはどんどん真似しようよ

コンサルティングファームというところで働く人達がいる。なんかもうすごい人達だ。考えることがすごい。本とかいっぱい出してる。仕事術とか組織がとかなんか頭良さそうなやつを。

 

恐らく彼らは考えることがコスパ最強なんだと思っているのだろう。それは本当にその通りで、働いてみるとよくわかるが、あんまり考えない人が社会では多数派だ。これは地位に関係ない。前例踏襲主義というか、とにかく前例の通りやってればいいと思ってる人は多いし、いかなる変化があっても以前の事に固執する人さえ居る。

 

だからちょっと考えるだけで成果になりうる。これはとてもコスパがいい。知的怠惰になる人が多いからこそ、考える人というのはもうそれだけで価値があると思う。そんなに高度な物じゃなくてもいい。「考えました」というのがちょっと恥ずかしいくらいでもいい。こうしたらどうなるかな?程度でも、毎日続けてると積み上げられていくものだ。

 

「正しい考え方」というものを我々はあまり知らない。これは学校で習うような正解にたどり着くための考え方ではない。自分で考えた結論を持つ上で、抑えて置くべき必要な方法、プロセスという意味だ。そういうものをコンサルティングファームの人たちは実に沢山書籍にしたりして発信していてくれている。親切な奴らだ。

 

僕は仕事の本質とは問題発見と問題解決だと思っているので、それを極める事を生業としているコンサルティングファームの人たちの方法を真似する事は意味があると思っている。彼らが公開してくれてる良いものがあるのだからドンドン読んで真似したらいい。社会はカンニングOKだし、守破離の観点から言っても合理的なはずだ。お得だ。例えば少なくてもMECEという概念を知っておくだけでも違うと思う。

 

むろん考えるだけではダメで、考えを裏付ける能力、それを伝達する能力等も必要となるが、ホワイトカラーの軸は問題発見と問題解決のために考える事なので、そまずそれを身につけるように努力していったら、自分に対する問題発見と問題解決も出来るようになっていくと思うよ。

ヤバくなったらとことん逃げよう

「逃げる」という行為にどこか後ろめたい響きがあるのはいつからなのだろうか。旧日本軍も転進という言葉を使っていた事から、なんとなく我々は散華する事に潔さを感じ、逃げることは卑怯な事という文化を持っている。

 

しかし軍や戦いという視点で考えた場合、最も避けるべきは全滅のはずだ。そして自分の人生を1つの軍隊として考えた時には、捲土重来を期すべく、そのために全滅という結果を避けるべく「逃げる」という選択肢も充分にありだと思う。

 

ストレス社会と現代が呼ばれて久しいがそれは加速していると感じる。メールが無かった頃や、携帯電話が普及していなかった頃と比べたら、仕事の密度は高まっている。時差のあるグローバルビジネスもそれに拍車をかける。仕事の密度が高まれば当然荷重も高くなるわけで、心身共に健康を保つ事が非常に重要だ。

 

だが多くの日本人はとことんまで頑張ってしまう。これは本当に美徳だと思うのだが、やっぱり労働、ないし、今の労働文化という観点からはちょっとマイナスだと思う。自分という軍がどんなに気合で頑張っても、援護射撃してくれる人がいたとしても、回復はどこまでも自分の課題だ。衛生兵が何かしてくれても、自己治癒力がウエイトを占める話なのが労働における回復であり、人間の自己治癒力には限界がある。心身共にやられていくのは、兵がバタバタと倒れて行くのと同じだ。

 

だがそれを否定する謎神話、謎信仰が日本社会は強すぎる。「自分の若いことはこんな事では・・・」「みんなやってるよ・・・」「みんなが頑張ってるから自分だけ・・・」みたいな話で、自分自身を追いこんでしまい、最悪の場合自死に至った人だっているのだ。仕事で命の選択を迫られてるんですよ。そんな事他にある?人生で。

 

会社はあなたの心身の健康について細かく見ていない。助けてと言わなければ助けないし、助けてと言っても助けてくれない場合もある。法人格とは人間では無いので血の通った対応などは基本的に期待しないほうがいい。

 

だから自分軍にしっかりと注意を払って「あっ、自分軍やばいな」とか「自分軍強行しすぎてるな」とか、状況をきちんと認識し、対応するべきなのだ。貴方は自分軍の唯一の指揮官であり、その指揮は自分の人生にも直結しており、全滅は人生をめちゃめちゃにされる事にも繋がりうる。

 

これは僕の大好きな漫画、皇国の守護者のセリフなのだが「無理をするからにはきちんとした部隊でなければ」というものがある。無理は万全の体制をしいて短期間のみやるものなのだ。無理は続かない。そして無理によってあなたが壊されては意味が無いのだ。

 

兵法三十六計の三十六計目は走為上である。逃げるが価値の場面は確実にある。とことん逃げて、回復してからまたやり直せばいいだけの話なのだ。もうだめだ、もうこれしかないなどと思ってはいけない。そう思った時あなたは正常ではなく、的確な判断も出来ていない。故に、その時するいかなる選択も失敗する確率が高まっている。まず逃げる、そこから考える。これで十分間に合うように、世の中は出来ている。

 

とにかくヤバくなったら逃げてほしい。逃げることを恐れないでほしい。

実績だけが自分を守る

転職をすると職務経歴書を書かなくてはなりません。これはあなたがどんな事を今までの会社でしてきたかという内容を書類にしたものです。これ書いてみるとわかるのですが、最初は書くのにとても苦労します。僕は新卒で入った会社を早い段階で辞めたので、何をしたかを書くのに途方に暮れた思い出があります。

 

それ以降は針小棒大に書き立てるスキルを得た事から書けるようになったのですが、つくづく実績が大事だと思ったのはこの時でした。

 

人事が書類選考で重要視するのは職務経歴書です。でも数が多いので斜め読みします。どんなに沢山書いても7割ぐらいの人事が斜め読みです。(エージェントがそういう統計を持っています。)むしろ長いと読む気が失せるそうです。読めや。なので書き方には一定のコツがあるのですが、それは今回は置いておきましょう。

 

結局ネタが無いと斜め読みしてもらうための文章も書けないし、捏造するにしてもしんどいのです。自分で自分を洗脳するぐらいの努力も必要ですし、詳細も作り込まなければいけません。面接を重ねると、会社側の質問による深掘りの度合いがわかってくるので作り込みもある程度までで良いなとわかりますが、慣れるまでに時間もかかりますし、面倒くさい事にはかわりありません。

 

何より大事なの事として、捏造では内から発する「これは自分がやった仕事だ」という自信が出にくいです。(「認知の歪み」による自信の無さというものもありますが、それはまた別の話)。

 

メラビアンの法則をご存知でしょうか。超訳すると言語と非言語が大体以下の割合というものです。

 

言語情報 (話の内容等) : 7%
聴覚情報 (声のトーンや話のスピード等) : 38%
視覚情報 (見た目等) : 55%

 

本当にそうなのかはおいておいて、内なる自信があると見た目もキョドらないですし、声のトーンも自信のあるものになります。となるとメラビアンの法則によれば、捏造した時より低く見積もっても60%以上有利に面接を進める事が出来るはずですね。

 

僕は比較的数字にしやすい実績があるのですが、自分が思っている以上にその実績を高く評価されてるなと書類選考や面接を通じて感じたことがあります。転職回数も多いのですが、この回数でここ通るの?と思った事も何度もあります。

 

あなたの実績を判断するのはあなたではなく他者なので、その他者が、あなたの実績から推測したあなたのスキルを欲しがっていたなら、自分が思っていた以上の場所へ転職出来る可能性はあります。思ってた以上の場所に行く必要がなくても、ある程度自分が選択する事が出来るという「選択の権利」に繋がるのであれば、実績を意識してみて働く事は人生のコントロールを考える上で有益と言えるでしょう。