普通よりちょっといい感じで生きていけたらな

社畜も起業も違うんじゃないの?って視点で働き方を考えているつもりのブログ

「完璧な努力」をしていないと努力してないってのはやめませんか

「自己責任」という文字列が飛び交うような場でよく言われるのが「努力をしてなかったから」という論だ。もう結論から言ってしまえばこの論は難癖をつけるためのに用いられているに過ぎないから、あんまり深刻に捉えても仕方ないんだけど、それにしたって完璧で完全無欠な努力をしてさえいれば避けられたはずっていうのは、あまりにも難易度高すぎやしませんかね。

 

努力そのものと、努力と成功というものはかなりあやふやなものというのが実際だと思う。努力は「ある目的のために力を尽くして励むこと。」とデジタル大辞泉では定義されていた。この力を尽くしてというのは実際他人からは計り知れないし、努力の方向性が間違っている場合だってよくある事だ。あまり好きな言葉ではないが「私なりに」力を尽くしている人に対して、それ以上のことを求めても、良い結果とはならないのではないか。

 

結果論で叩くために努力の過程を丹念に調べ上げて糾弾することに意味はない。会社の様な場所であれば、例えば努力の方向性が間違っていた事に注目して、次はどうしたものかと考えたほうが建設的だ。

 

僕は自分が毎回「完璧な努力」が出来るとは思わないし、おそらくそれは無理と無茶を積み重ねる事になると思う。無理をするのは瞬間的なものにしたいし、もちろん試行錯誤して可能な限りその状態に近づけたいとは思うが「完璧な努力」を全ての場面で行うのは恐らく出来ないだろう。そんな時責められるような社会なり風潮よりも「しゃーない」で許し合って、アドバイスが取捨選択出来るような方がいい。